「私、何かした?」って聞かれたけど——その問い自体がもう苦しい

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妻から突然、「私、何かした?」と聞かれた。


その瞬間、いろんな感情がこみ上げたけど、もう正面から向き合う気力は残っていなかった。
この問いに「はい、しました」と答えるまでに、心の中ではいくつもの言葉が渦巻いていた。

この記事で分かること

家事をしない妻に、僕は限界を感じていた

僕は、夫婦の役割分担が「完全な対等」である必要はないと思っている。
でも、妻がしている家事は、ほぼ毎日のお弁当作りと休日の洗濯だけ。
それ以外は「自分の仕事ではない」と思っているように見える。

共働きであっても、どちらかが一方的に背負うのはきつい。
僕が仕事でどんなに疲れて帰っても、家庭内の役割は変わらない。
「あなたがやってくれるでしょ?」そんな無言の圧力の中で、僕はずっと生活してきた。

「いじけてるんでしょ?」という言葉が胸に刺さった

思い切って不満を伝えたとき、妻が返した言葉はこうだった。
「なに?いじけてるの?」

……違う。
僕はただ、少しでも分かってほしかっただけなんだ。

思いやりを求めることが「甘え」とされるのなら、僕はもう何も言えなくなる。
「言わなくても察してくれるはず」と思っていた自分が、バカだったのかもしれない。

叱られる娘と、片付けない母親

娘に「片付けなさい」と叱るのは、母親として当然の姿だろう。
でもその直後、リビングには食べかけのお菓子、使いっぱなしの筆記用具、ペットボトルが放置されている。

片付けるのは、いつも僕だ。

娘は母の背中を見て育つ。
だからこそ、僕はこう言いたくなる。「それで娘に、どうしてちゃんとしろって言えるの?」

もう、何度も伝えた。それでも変わらない

こういう話を何度してきたか、もう覚えていない。
その度に、「分かった」と言いながらも、何も変わらなかった。

だから、僕はここに書く。
もう真正面から話すエネルギーが残っていないから。

面と向かって話したらいいじゃん、って言うかもしれない。
でもその前に、変わる気がないと分かった相手に、何をどこまで伝えるべきなのか。

理解されたいわけじゃない。ただ、心を殺したくなかった

本当は、分かり合いたかった。
でも、今はただ、自分の気持ちを押し殺してまで暮らす意味があるのか、自問している。

僕は人間だ。ロボットじゃない。
家庭という場所で、少しでも安心していられる日が来ることを、まだどこかで願っている。

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