こんにちわ、わっさん(@W89175549)です。
いつもブログを読んでいただいてありがとうございます。
僕の母は第2子の妊娠がわかった時、病床に就いていました。
母の体はガンに冒されていました。ステージ4、転移していました。
ガンの事が分かったのは第2子の妊娠前の事です。
その年に入ってからたまたま実家に行く予定があり、母の元を尋ねてみると顔は真っ青でうずくまっている時間が長く、調子の悪いことが一目で分かりました。医者に連れていこうかと尋ねると、心配しなくて大丈夫だと頑なに言い張るので、鎮痛剤を買って渡し、実家を去りました。
後日、母から連絡があり「尿管結石」だった事が分かりました、が、おかしいなと思ったのはその後でした。
念のため、検査入院をして下さいと母が言われたのです。
尿管結石だったら鎮痛剤をもらって石が出るのを待てば良いはずなんだけど、どうして入院する必要があるのか?
尿管結石を調べた時点で体に異変がある事を、医師は分かったのでしょうね。
母は検査のため、入退院を繰り返しました。
その後、医師から「ご家族で来て欲しい、お伝えしたい事がある」と連絡をもらいました。
僕と父・母が病院に着くと通されたのはカンファレンスルーム、この時から既に嫌な予感がしていました。
医師から「奥様は肝臓がんです」と告げられました。
その後に見せられたレントゲン画像には、母の肝臓に数個の点々が2つのグループになって集まっているのが見えました。
母は以前、乳がんを患って乳房切除を受け、生存率が高まる5年を超えていたので完治したと思われたのですが、実はその乳がんが再発していて肝臓に転移したのが今回の事。
その時の乳がんの細胞と今回の肝臓がんの細胞に共通する部分が確認できたとのことでした。
この告知を受けてから、僕たち家族は母のガン治療をサポートしていきました。
母は入院、父は単身赴任で他県に住んでいたので実家に残された祖父の面倒を見れる人がいなくなったので、家を嫁に任せて僕が実家に住みながら面倒を見ていました。
僕の勤務先が母の入院してた病院の近くにあったので、早く帰れた時には母のところに立ち寄りました。
母の状態は日を追うごとに少しずつ悪くなっていきました。
放射線治療で髪の毛が抜け、ニット帽をかぶるようになった事はまだしも、腹水が出始め、黄疸が出始めました。
肌がツヤツヤしていて血色の良い母はどこにいったのだろうか、正直ショックでした。
ショックだけど、サポートする側の気持ちが折れたら母を支えられないと思い、強い気持ちを持とうと決心した事を覚えています。
その年の春、父が定年を迎え、他県から実家に戻ってくることになりました。
僕はトラックを運転し、父の住む他県まで迎えに行き、引越しの段取りをした日に父と生まれて初めて居酒屋で飲みました。
幼少期、父と遊んだ記憶はあまり無く、とても怖い存在だったので僕は昔から少し距離をとっていました。母も昔からそれを気にかけていたので、二人で飲みに行った事を聞いた母の目は優しく本当に嬉しそうでした。
僕も初めて、父と子、を超えて男同士で酒を酌み交わしたと思えた夜でした。
そして、父は実家に戻って来ました。
その時、母も一時帰宅を許可してもらって、家に来ました。
何十年ぶりかの夫婦一緒の生活が過ごせました。
そんな時に第2子の妊娠を報告しました。
父と一緒に暮らせて、第2子の妊娠を聞けて、母はこの時一番幸せだったんじゃないでしょうか。