「子ども、もう一人欲しいと思わない?」
妻の口からその言葉が出たとき、僕はすぐに返事をすることができませんでした。
家族の将来を思う気持ちは、僕にもあります。
でも、妻との関係性、過去の傷、そして今抱えている感情が、それをすぐに「うん」と言える状態にはしてくれなかったのです。
これは、僕が二人目の子どもを迎えることについて、素直になれなかった理由と、夫婦間の感覚のズレに直面した時の記録です。
「もう一人子どもが欲しい」と言われて
2016年を迎えたある日、妻から切り出されたのは「もう一人、子どもが欲しい」という話でした。
彼女はこう言いました。
「うちの子、このままだと天涯孤独になっちゃうかもしれないから…」
僕には兄弟がいません。
妻には兄弟がいるけれど、結婚の予定もなく、このままだと子どもにとって“頼れる存在”が誰もいなくなる——それを危惧したようです。
確かに、僕自身も同じことを考えたことがありました。
大人になったとき、我が子が孤立しないように…。
それでも、僕はすぐに「うん」とは答えられなかったのです。
僕が妻との営みに抱える嫌悪感
返事を保留したのには、はっきりとした理由があります。
僕は今、妻との営みに対して強い嫌悪感を抱いています。
子どもを作るということは、当然その行為を伴います。
それが避けられないからこそ、どうしても気持ちがついていかなかった。
妻とそういう関係になることを考えるだけで、正直、心と体が拒絶してしまうのです。
どんなに子どもが愛おしくても、それは別の話でした。
「試験管ベイビーかぁ?」という言葉に凍りついた
しばらく返事をせずにいたある日、妻がふざけたようにこう言いました。
「こりゃー、試験管ベイビーかぁ?」
その言葉を聞いて、僕は正直ガッカリしました。
どんな事情があるにせよ、
子どもが将来その経緯を聞いたら、どう思うんだろう。
命の始まりを、そんなに軽く、冗談のように口にしてしまうものなのか。
もちろん、彼女に悪気はなかったのかもしれません。
でも僕には、それがあまりにも短絡的で、命を扱う重みが欠けているように感じてしまったのです。
子どもを迎えるということの重さ
「兄弟を作ってあげたい」という気持ちはわかります。
それは間違いなく“愛”から来る言葉だとも思います。
でも、命を迎えるということは、それ以上の覚悟と信頼関係が必要なんじゃないでしょうか。
僕の中で、妻との間に生じたズレや痛みが残っている限り、
それは「単なる数合わせ」では済まされない問題なのです。
今のままでは、僕はこの先に進む準備ができていません。
そして、そんな状態のまま子どもを迎えるのは、
僕にとっても、今いる子にとっても、新しく生まれる命にとっても、無責任すぎると思ってしまうのです。
まとめ
命を授かるというのは、尊いこと。
でも、そのプロセスに「心が置き去り」になってしまえば、苦しむのは大人だけではありません。
「もう一人子どもが欲しい」という願いは、僕にとって簡単には答えられない問いでした。
夫婦の形が少しでも癒え、心が近づいた先に——その答えがあるのかもしれません。