こんにちわ、わっさんです。
親が子どもを叱るとき、あなたは何を大切にしていますか?
僕は「叱る」と「怒る」はまったく別物だと思っています。
子どもを一人の人間として尊重し、教える立場として接することが“叱る”であり、
自分の感情をぶつけるだけの行為は“怒り”だと感じるのです。
ある日、娘と妻が風呂場で揉めている声が聞こえてきました。
その様子を見ていた僕は、「これって本当に娘のための“叱り”になっているのか?」と強い違和感を抱きました。
今回はその出来事を通して、親としての在り方・言葉の重さ・夫婦間の教育方針のズレについて考えたことを記録しておこうと思います。
風呂場で感じた、いつもと違う空気
仕事を終えて帰宅すると、妻と娘が一緒にお風呂に入っていた。
いつものように微笑ましい親子の時間かと思いきや、脱衣所で耳に入った会話に違和感を覚えた。
妻:「もう、いいよ。知らない。勝手にしたら?」
娘:「やーだー……」(泣きそうな声)
僕も一緒に風呂に入りながら、二人の様子を見守ることにした。
嫁にとって「散々な一日」だったらしい
話を聞いていると、娘が妻の言うことを聞かないことが原因らしい。
- 幼稚園を休んで病院へ → 売店で駄々をこねた
- ご褒美に某ファーストフードへ → 食べ残した
- 娘の希望に応じた夕飯 → 間食して食べなかった
…と、確かに妻から見れば「頑張ったのに報われなかった」一日だったのだろう。
❌ 僕が嫌だった“叱り方”の構図
僕が気になったのは、妻が僕を巻き込んで「二人で娘を叱る構図」を作ろうとしたことだった。
正直、僕は親が“二人がかり”で叱るのは反対だ。
なぜなら、子どもが強い孤独感を感じるから。
僕自身が幼少期にそれを経験しており、それが今でもトラウマになっている。
本当に伝えたいことは、フォローしながら一人が丁寧に言う方が伝わると思っている。
これは“叱り”?それとも“怒り”?
風呂上がり、妻は娘に説教を続けていた。
「信じられない」
「裏切った」
「謝るってどういう意味?」
言葉の一つ一つが重すぎる。
娘は泣きながら謝っていたけど、その気持ちは妻には届かなかったようだ。
傍から聞いていても、「怒っている妻」しか見えなかった。
「なぜダメなのか」という理由が曖昧で、主語が“私”ばかりだったのも気になった。
子どもの目線で叱るということ
子どもは未熟で、知らないことばかり。
失敗しながら学んでいくのが当然であり、それを教えていくのが親の役割だと思う。
だからこそ、感情をぶつける“怒り”ではなく、教えるための“叱り”でなければいけない。
子どもの視点に立って言葉を選ぶべきだと思う。
余談:片づけの矛盾
後日、娘と「片づけ」について口論になったとき、
娘が「ママだって片づけないくせに」と言ったそうだ。
実際、妻は食べっぱなし・脱ぎっぱなしで、片づけは得意ではない。
それを指摘されたとき、素直に「そうだね」と認めればよかったのに、
「でも……」と反論したと聞いて、僕はまたモヤっとした。
他人に厳しく、自分に甘い。
そんな姿勢では、子どもは納得しないし、言葉も響かないと思う。
まとめ
「叱る」と「怒る」は似ているようで全く違う。
叱るとは、子どもが成長するための道を教えること。
怒るとは、自分の感情をぶつけて相手をねじ伏せること。
親として、自分の感情に流されず、子どもの未来を見て接する覚悟が必要なのではないかと思う。
今日の妻の言葉は、残念ながら“叱り”ではなかった。